誰かを、自分自身を、「見る」こと。カナダ在住の編集者・吉田守伸による、トロントのBIPOC(黒人・先住民・有色人種)コミュニティを支える人々の姿と文章を紹介していく連載企画。
トロントに住み始めてから丸二年になる。英語圏で暮らすようになってよく耳にする表現の一つに「I see you.」がある。直訳すれば、「あなたが見えます」となるだろうか。しかしこの表現には、日本語に容易に置き換えられないニュアンスが含まれている。その翻訳しきれない部分というのは、言葉の意味そのものというより、言葉が発せられるときの態度、と言った方が正しいかもしれない。この「I SEE YOU」という連載企画は、私がトロントで出会った6人の友人たちに、この言葉を出発点にして文章をつづってもらい、それを本人のポートレート写真と共に発表していくというものだ。その前に、私たちが暮らすトロントがどういう場所なのか、私たちがどこで出会ったのか、説明が必要だろう。まずは、一つの忘れられない思い出から書き始めたい。
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それは冬の入口の曇天の日に、トロント郊外にあるケネディ駅でパートナーと一緒にバスを待っていた時のことだった。バスターミナルの一つ隣の乗り場に黒人の中年女性がぽつんと立っていた。日頃から誰にでも話しかけ、関わりたがる私のパートナーは、その女性と目が合うといつものようにこくりと頷いて目礼を送った。彼の挨拶に気づいた女性はこちらへ近寄ってきてこう言った。
「私に気づいてくれてありがとう。最近カナダへ来たばかりだから、誰も私のことを知らなくて、自分の存在が見えなくなったみたいで気持ちが沈んでたの。あなたが私を見つけてくれて私の一日が救われたよ」
カリブ海のバルバドス出身だという彼女とパートナーの会話を横で聞きながら、私は相手を「見る」という小さな行為が持つ大きな力に静かに圧倒されていた。
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トロントは過酷な都市だ。物価の高さは世界でもトップクラスで、ワンルームのマンションを借りるだけで20万近くはかかる。多くの人が家族やパートナーと同居するか、友人あるいは知らない人どうしでシェアハウスを借りて何とか住む場所を確保している。安価な公共住宅の数は絶対的に足りておらず、路上生活を送ったりシェルターを転々とする人も多い。その一方でダウンタウンのあちこちで再開発が進み、「コンドー(コンドミニアム)」と呼ばれる富裕層向けの高層マンションが呆れるほどの速度で次々に建設されている。世界中から移民の集まるこの都市で、人は冷酷な資本主義のペースに合わせてがむしゃらに働くことを余儀なくされ、それができなければ簡単に住む場所をなくす。ここでは町を行く人たちは互いの行動を監視したりしないが、同時に相手に関心を持つ人も少ない。多様性と自由と引き換えに、この都市で人は簡単に孤立に陥る。
私がトロントに住み始めたのは2021年10月のこと。パンデミックはまだ落ち着いてはおらず、次から次に押し寄せる感染の波と刻々と変わるカナダの入国規制を絶えず気にしながら、その隙間をかいくぐるようにして実現した渡航だった。初めて住む外国の都市はその前に5年間暮らした東京とは人口密度も空間のつくりも人の感じもまるで違い、はじめの数週間はそれまで感じたことのない解放感に満たされて過ごした。生活も落ち着きいよいよ色々な人と出会っていくぞという時に、オミクロン株の波がトロントを襲い、すべての社交の機会が一瞬にして吹き飛んだ。当時私は、渡航前から世話になっていたカナダ人夫妻のそのまた友人が所有する一軒家に、ひと冬の間だけという約束で破格の値段で住まわせてもらっていた。トロントでは例年11月の半ばに冷たい雨が降りしきり、それが去るとがくんと気温が下がって長く重苦しい冬が始まる。経験したことのない寒さとオミクロン株の流行に出鼻をくじかれ、私はカナダでの最初の冬をほとんど家の中で過ごした。日本から持ってきた荷物はスーツケース二つ分だけで、何もかも人のものに囲まれて暮らしていると、自分がまるで幽霊になって大きな家の中をさまよっているような気になり、気がふさいで一日中ベッドから起き上がれない日も多かった。閑静な住宅街の夜はぞっとするほど静かで、窓の外ではいつも雪がちらついていた。すぐ近所に住んでいたカナダ人夫妻との短い散歩やティータイムがかろうじて心を支えてくれた。
このままでは立ち行かなくなると思い、私はつながりを求めてワークショップやクイズイベントなどSNSで見つけたオンラインのイベントに片っ端から参加するようになった。その中でたどり着いたのが、トロント・カウンシル・ファイアという先住民のコミュニティ団体が主催していたシェアリングサークルだ。シェアリングサークルとは少人数で集まり、色々な話題についてじっくりと語り合う場のことを言う。告知文には週一回オンラインで集まっていること、カナダではマイノリティであるBIPOC(黒人・先住民・有色人種を表す頭文字。この言葉については次回詳しく説明する)が中心の場であること、そして「LGBTも歓迎」であることが書かれていた。クィアを自認する私は最後の一言に励まされ参加を申し込み、結局それから半年近く常連として通うことになった。
シェアリングサークルには毎回10人前後が顔を出していた。おしゃべりの輪はいつもファシリテーター(司会者)からの挨拶代わりの簡単な質問(「今日はどんな気分?」「最近あったいいことは?」)で始まり、参加者全員が順番にそれに答える。バッドな一日だった、と言葉少なに答えてもいいし、ちょっとした嬉しい出来事について話してもいいし、前向きな自分も後ろ向きな自分もどちらも場に招き入れてくれる空気があった。全員が答え終わった後は、その日のテーマ(メンタルヘルスに関する回もあれば、自分のルーツについて話す回もあった)に合わせてファシリテーターが用意した質問に対して参加者が言葉を探し、自分の経験や思い出、気持ち、考えを共有する。この場で他の人たちが語ったことを具体的に書くことはできないが、それぞれの属性と生きてきた人生を背負って、マイノリティとしての脆さと強さをにじませながら話すその姿は、私にとってトロントという同じ都市に生きる人たちの生活を覗く初めての窓だった。同時に、私もそのるつぼのような語りの渦に、日本でクィアとして生きていたころの窒息するような思いや、つたない英語しか話せないニューカマーとしての疎外感、ふいによみがえった父親の郷里である大分の港町にまつわる記憶などを投げ入れ、画面に映るほかのメンバーは穏やかな表情でそれを聞き届けてくれた。その時はじめて、たしかに自分が誰かに見られ、聞かれ、この土地に存在していると思えた。
編集者。日本評論社勤務を経て、2020年からフリーランス。社会的マイノリティや、書くことを専業としない多様な書き手たちとの協働で出版をすることに関心がある。2023年にトロントメトロポリタン大学出版技能プログラムを卒業、Robert Weaver Award for Editorial Excellence 2023を受賞。担当書にSWASH編『セックスワーク・スタディーズ:当事者視点で考える性と労働』(日本評論社、2018年)、康潤伊・鈴木宏子・丹野清人編著『わたしもじだいのいちぶです:川崎桜本・ハルモニたちがつづった生活史』(同、2019年)、山田創平編著『未来のアートと倫理のために』(左右社、2021年)、内山幸子・平野真弓ほか著『戸口に立って:彼女がアートを実践しながら書くこと』(ロード・ナ・ディト、2023年)など。インスタグラムでカナダの本をひっそり紹介中(@nobu_warabee)。